新・凡々ブログ

主にクトゥルー神話のことなど。

恋する触手

 Cthulhu 2000 にはエスター=M=フリーズナーの"Love's Eldritch Ichor"が収録されている。eldritchもichorも耳慣れないが、クトゥルー神話作品においては頻出する単語だ。この題名を直訳すれば「愛の不吉なる膿漿」といったところか。割と好きな作品なので、粗筋を紹介させていただくことにする。
 『海の火』という長編恋愛小説の原稿がニューヨークの出版社コロンバイン=プレスに送られてきたところから物語は始まる。『海の火』はインスマスを舞台にした恋愛小説で、作者はセーラ=ピックマンというアーカム在住の女性だった。コロンバイン=プレスの辣腕編集長マリベス=コンランは雀の涙ほどの金で『海の火』を買い叩き、部下のロビン=ペニーワースにピックマン嬢の担当を命じる。ちなみにコロンバイン=プレスの社長はクラリッサ=アシュリー=スミス(つまりC.A.スミス)という女性で、部下に対しては独裁者のように振る舞っているコンラン編集長もスミス社長にだけは一目置いている。
 ペニーワースはピックマン嬢と面談することになった。彼がニューヨークからはるばるアーカムを訪れると、若く美しい(そしてカエル顔の)娘が出迎える。ロビンとセーラは恋に落ち、セーラはロビンの勧めでニューヨークにやってくる。業界の実情を知った彼女が正当な稿料を要求しだしたらどうするのだとコンラン編集長は怒り、君はアーカムに帰った方がいいと勧める手紙をロビンは仕方なくセーラに送った。
 セーラはロビンからの手紙をホテルの一室で読んでいる。彼女と一緒にニューヨークに来た方々で部屋は満杯だった。浴室では大いなるクトゥルーがくつろぎ、クロゼットの中にはナイアーラトテップショゴスたちが詰め込まれている。さらに空調装置の中にはハスターがいた。美少女と旧支配者の御一行様だ。もっと大きな声で手紙を読んでほしいと頼むナイアーラトテップクトゥルーは「どうして君がセーラの手紙の内容を知りたがるのだ?」といい、すねたナイアーラトテップは「いいよ、僕はただの使者だもんね」と言い出した。ナイアーラトテップの長広舌にショゴスの合唱が加わり、業を煮やしたクトゥルーは触手を伸ばしてナイアーラトテップをひっぱたく。
 自分をアーカムに追い返そうとするロビンの手紙を読んでセーラは涙ぐむ。これはあまりにもロビンらしくない、何か邪悪な力が働いているに違いないと彼女いった。「僕は無関係だよ!」と言い訳するナイアーラトテップ。「今朝はティンダロスの猟犬を散歩させていたからね!」
 そんな男とは距離を置いた方がいいのではないかとハスターが助言し、彼女の気持ちを考えろとクトゥルーが反駁する。クトゥルーは手紙の匂いをかぎ、さらに端を囓りとって味を見た。そして「なるほど、セーラが正しい」と結論する。「大いなる邪悪が作用している。名状しがたい均整の恐怖が、正常な精神を狂わせ悪夢の梯子を転げ落ちさせる醜悪な腐敗という忌まわしきものが──」
 もったいぶるなとハスターが野次を飛ばし、「おまえ、俺より魔道書での扱いが小さいからって妬むんじゃねえ」と言い返すクトゥルー。何とかならないのかしらとセーラに助けを求められて、クトゥルーはいった。「わからんが、やってみよう。編集長という奴を相手にしたことは今までないもんでね」
 コロンバイン=プレスの編集部でコンラン女史とセーラ=ピックマンは面談することになった。契約書の内容を一部変え、稿料の前払いをなくしてほしいとセーラが頼んだからである。出版社にとっては契約がますます有利になるので、コンラン編集長が拒むわけがない。夜も更けてから姿を見せたセーラとロビンはひしと抱き合うが、コンラン編集長は一刻も早くセーラをアーカムに追い返したくてたまらない様子だ。その時、大いなるクトゥルーが威風堂々と降臨した。
 『海の火』は大ヒットしたが、クトゥルーの逆鱗に触れたコンラン編集長は精神を破壊されてしまい、ダニッチ療養所で暮らすことになった。ロビンはセーラと結婚し、『海の火』の成功に喜んだスミス社長は彼をコンラン女史の後任として編集長に任命する。こうして、コロンバイン=プレスは誠意と敬意をもって作家を公正に遇する出版社に生まれ変わったのだった。めでたしめでたし。
 スラップスティックとしか言い様のない作品だが、悪くない。初出は1990年度の世界幻想文学大会のプログラムブックだそうだが、いかにもお祭り向けの話である。作者のフリーズナーは2007年度のワールドコンに参加するために来日したと聞いた。

Cthulhu 2000: Stories

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