新・凡々ブログ

主にクトゥルー神話のことなど。

雨が降るとき

 フランク=ベルナップ=ロングに"When the Rains Came"という作品がある。ダーレスの編纂したアンソロジーOver the Edge に収録されている短編小説だ。
 乗っていた宇宙船が大破し、地球から何千光年も離れた惑星で暮らすことになったコノヴァンという男が主役である。そこは雨がまったく降らないにもかかわらず植物が豊かに生い茂り、あくせく働かないでも生きていけるほど環境に恵まれた星だった。住んでいるのはカラヤ人といって、礼儀正しく温厚な種族である。彼らに衣食住を提供してもらい、俺は何たる果報者だと思うコノヴァンだったが、ただひとつ気になるのはカラヤ人の挨拶の言葉だった。「雨が降るまで」という文句をやたらと多用するのだ。雨が降らない星で雨の話をするとは、一体どんな意味があるのか? コノヴァンはカラヤ人に質問してみたが、はぐらかされるばかりだった。そして、とうとう雨が降る日がやってきた。
 いったん降りはじめた雨はいつまでも止まず、陸地はみるみる水没していく。するとカラヤ人は体が変化し、鰓呼吸ができるようになった。彼らは海に潜り、置いてけぼりにされたコノヴァンは高山に避難して考え事に耽る――カラヤ人は愛想がよく物惜しみしないが、他者の身になって考えるということができない種族だった。雨が降ったときにどうなるのかを早めに教えてもらえれば、あらかじめ船を造っておくといった手が打てたかもしれないのに、カラヤ人はそうしてくれなかった。コノヴァンがどんな目に遭うかということよりも、不快な現実から眼を背けておくことの方が大事だったから。コノヴァンに会えなくなることをカラヤ人は残念がってくれたが、他には何もしようとしなかった。

地球の人々は愚かだ。彼らのすることの9割はおよそ意味がない。だが、無意味なことをしているうちに彼らは連帯感を育んだ。人々は互いにすがり合うようになった。憎み合うことだってある――嵐に翻弄される小舟の中ですし詰めになっている人々が憎むことがあるように。だが、少なくとも彼らは船を造り、友達にもそうしろと勧めるのだ。彼らは嵐の到来を前もって警告し、いざ雨が降ったときには愚かながらも団結して、共感と叡智そして力の生ける標柱となる。彼らは知っているのだ――溺れるのは怖ろしい、怖ろしいことだと。

 水かさはどんどん増していったが、コノヴァンが山頂に張ったキャンプが洪水に飲まれる寸前で雨がやんだ。その2日後、地球から来た宇宙船が彼を救助する。カラヤ人に生まれなくてよかったと思いながら、コノヴァンはその星に別れを告げたのだった……。他者の境遇に同情し、連帯することができるからこそ人類は人類たりうるのだという話。ひねりのない作品ではあるが、私は割と好きだ。
 この話を私が読んだのは何年も前のことなのだが、当時は知らなかった楽屋裏の事情をピーター=ルーバーがArkham's Masters of Horror で明かしていた。1963年、ロングはダーレスに無断で『ティンダロスの猟犬』の二度売りをしていたというのだ。『ティンダロスの猟犬』はアーカムハウスの本であり、ロングのしたことは法的にも道義的にも問題があったが、正直に打ち明けてしまうあたりが彼らしい。
 妻が病気で、どうしてもお金が必要だったのですと平身低頭するロング。事前に相談してくれたら、もっといい値段で売れるよう一肌脱いだのにと呆れ顔のダーレス。「あなたの誠意を疑うものなどおりませんよ。規約によればエージェントと私にも取り分がありますが、そんなものはいずれ払ってくれればよろしい」とダーレスは手紙を書いてロングを安心させた。さらに、経済的に困窮しているロングのために新しい仕事を回してやることにしたのだが、その仕事というのがOver the Edge のための書き下ろしであり、ロングが書いたのが"When the Rains Came"だったというわけである。「お互いに助け合ってこそ人間なんだなあ」というのはロングの実感がこめられた言葉だったのだろうか?
 ルーバーはアーカムハウスの編集長を務めていた人である。「せこくて格好悪いロング」と「度量が大きくて先輩思いのダーレス」を対比させようという彼の意図は見え透いているが、それにしてもロングは冴えない。彼は90過ぎまで生きていたが、ずっと貧乏なままだった。生ける伝説といえば聞こえはいいが、その実ラヴクラフトの思い出を語り続けるためだけに長生きしたようなものだとはピーター=キャノンの弁である。そんなロングの作品を読んでいるとき、愛おしさに似た何かを私は感じる。