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主にクトゥルー神話のことなど。

ラヴクラフトの文体

 加藤周一曰く、英文の妙味を解するだけの力は自分にはない。加藤周一ほどの人がそんなことをいうくらいだから、ましてや私が英語の文章を云々するのは大変おこがましいことなのだが──と前置きしてから今日の記事を始める。
 岡和田晃さん(id:Thorn)がTwitterラヴクラフトの文体について語っている。

ラヴクラフトの文体が読みづらいという人には、あれは19世紀小説の文体なので、別に特有なものではない、と述べておきましょう(例によってそういう研究もちゃんとあったりします)。

まとめよう、あつまろう - Togetter

 C.A.スミスも1937年5月13日付のダーレス宛書簡で次のように述べている。

個人的には、ラヴクラフトの後期の文体には何ら瑕疵を見出せません。ただ、時として少し冗長になりがちだったというだけです。ラヴクラフトの文体は今風の趣ではないことが多かったかもしれません。ですが僕自身に関する限り、そういう変わったところがあるからこそ文章がますます新鮮に感じられるのです。今日の平均的な洗練された読者が欠点と見なすものも、今から一世代か二世代が経った後ではそうは見なされなくなっていることでしょう。ここでは流行の影響というものを考慮に入れなければなりません。そして流行は常に儚く移ろいやすいものなのです。

 ラヴクラフトの文章が特殊であろうとなかろうと、読みづらいものは読みづらい。ただし私見を述べさせてもらえば、ラヴクラフトやスミスは言葉をよく吟味して慎重に文章を練るので、英語を母語としない人間にとっては却って読みやすいこともある。むしろダーレスの文章に面食らわされることが結構ある。余談だが、翻訳しにくさという点ではフリッツ=ライバーがラヴクラフトの上を行くように思われる(参照)。
 先ほど引用した手紙の続きで、文章の研磨に心血を注いだ作家の例としてスミスはフローベールを挙げ、次のように述べている。

フローベールが苦労して書いた分だけ、読者は楽に読めるようになるのです。安直に書かれたものをあまり読まされると、あの有名なダブリンへと通じる岩だらけの道を思い出します。

「ダブリンへと通じる岩だらけの道」というのはこの歌を踏まえているが、ここでは「よく練られていない文章を読まされるのは、岩だらけの道を歩かされるようにしんどい」という比喩以上の意味はないようだ。スミスらしい頑固なこだわりが感じられるが、作品を書き飛ばす癖があったダーレスを暗にたしなめているようにも聞こえる。

The Selected Letters of Clark Ashton Smith

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