灰色の物質
アーサー=マッケンの「黒い石印」からグレッグ教授の言葉を引用する。
Life, believe me, is no simple thing, no mass of grey matter and congeries of veins and muscles to be laid naked by the surgeon's knife; man is the secret which I am about to explore, and before I can discover him I must cross over weltering seas indeed, and oceans and the mists of many thousand years.
ここに出てくる"grey matter"という言葉を平井呈一は「灰色の物質」と訳しているが、これは脳の「灰白質」のことではないだろうか。もっともgrey matterが常に灰白質を意味するかというと、その限りではない。スティーヴン=キングに"Gray Matter"という短編があり、その邦題は「灰色のかたまり」である。異物が混入したビールを飲んだ男が「灰色のかたまり」に成り果ててしまうという話なので、この場合は灰白質などと訳したら誤訳になってしまうのだ。「黒い石印」における"grey matter"が一体どちらの意味なのか、本当のことはマッケンに訊いてみるしかなさそうだ。
なお「パンの大神」には"a slight lesion in the grey matter, that is all"というセリフがあるが、これは「灰白質に小さな傷をつける、それだけだ」と訳すのが妥当であるように思われる。脳科学に対するマッケンの関心の高さが窺える。