新・凡々ブログ

主にクトゥルー神話のことなど。

月世界ハリウッド

 クラーク=アシュトン=スミスがロバート=バーロウに宛てて書いた1938年5月10日付の書簡より。Marvel Science Storiesという創刊されたばかりのパルプ雑誌を買って読んだ感想を述べている。

ところで、この雑誌は掲載作のひとつかふたつで「刺激」への密かな傾向を示しています。ブラジャーや短い下着(猥褻な怪物によってヒロインから剥ぎ取られるわけですが)が宇宙船や光線銃と利益を分かち合っているのです。この分だと次は未来もしくは惑星間のエロティシズムに特化した雑誌が創刊されて、その題名はSpicy Marvel StoriesとかSnappy Wonder Storiesになることでしょう。掲載されるのは「ユートピアの陵辱」とか「月世界娼館」に違いありません。ヘンリー=カットナーは「月世界ハリウッド」を書いていますから、後者を引き受けてくれるんじゃないでしょうか!

 スミス自身も官能的な話を書くことはあるが、売上を伸ばすだけのために無理やりエロを突っこんだ作品は彼の美学に反したのだろう。それにしても辛辣だが、スミスは別にカットナーを嫌っていたわけではなく、1958年に彼が夭逝したときは衝撃を受けている。「月世界ハリウッド」はシリーズものなのだが、スミスが言及しているのは時期的に1作目のことであると思われる。2作目なら「大作<破滅の惑星>撮影始末記」として邦訳があるのだが、1作目は未訳だ。ただし原文はFaded Pageで公開されている。
www.fadedpage.com
 Faded Pageというのはカナダのボランティア団体が運営しているウェブサイトで、公有に帰した作品を公開している。早い話がカナダの青空文庫だが、そのため「もしもカナダ国外にお住まいでしたら御自分の国の著作権法を確認し、保護期間内の場合は作品のダウンロードや再配布をお控えください」と断り書きがしてある。だが前述したとおりカットナーは1958年に亡くなったので、その作品の保護期間は日本では2008年までとなっているはずだ。ありがたく読ませてもらうことにしよう。
 時は未来、人類は月に新たなハリウッドを築いていた。華やかな映画産業に憧れて月世界ハリウッドに押し寄せるものは後を絶たなかったが、月では人口過密は大惨事につながりかねないため密航者は問答無用で強制送還、そのための高額な費用は本人負担と定められていた。
 主人公のトニー=クエードはナインプラネッツで働く映画監督。小惑星エロスで撮影を行うはずだったが、エーテル乱流によってエロスが近日中に消滅すると判明したため予定がすっかり狂ってしまった。本来ならロケハンの段階で予測できたことなのだが、部下のグレッグがしくじったのだ。娘のキャサリンが月へ密航してくると知り、動転していたことが原因だった。
 エロスがまるごと消えてしまうほどの天体現象が発生するなら映画どころではなさそうなものだが、クエードはロケ地をガニメドに切り替えて撮影を続行することにした。なおガニメドは英語表記の時もドイツ式にGanymedと綴るのだが、カットナーの小説ではGanymedeになっている。おかげで木星の衛星と紛らわしい。
 クエードはスタッフを先に行かせ、いざ自分もガニメドへ赴こうとするが、彼の宇宙船にはなぜかキャサリンが乗りこんでいた。クエードは仕方なく彼女を同行させることにする。宇宙船がガニメドに近づくと、ボアと呼ばれる水路が見えた。小惑星なのに大気や水があるのだが、非常に質量が大きく重力が強いためだという説明が一応つけてある。
 クエードはガニメドに着陸して部下のペリンと落ち合うが、ペリンは何を血迷ったのかクエードの宇宙船で勝手に飛び立ってしまった。おまけに、もう一人の部下であるギオルソはガニメド固有の赤蛭にやられて死んでいる。クエードはキャサリンを連れ、他のスタッフが集まっているキャンプに徒歩で向かった。
 バウンサーと呼ばれる動物が現れ、クエードとキャサリンについてきた。かわいらしいといえないこともない外見なのだが、人間の思考を読み取って声に出すという特性があるため、ペットにしたがるものはいない。だがキャサリンはそいつと仲良くなり、ビルという名前をつけた。他にも類人猿めいた双頭のハイクロップスなどが出てくるのだが、小惑星なのに生態系がちょっと豊富すぎるのではないか。
 キャンプに辿り着いたクエードは部下たちから状況の報告を受ける。ラジウムの大鉱脈が見つかったためペリンが裏切り、大実業家のソベリンのところへ情報を売り込みにいったのだという。ソベリンの工作によってクエードはガニメドの使用権を取り消され、撮影ができなくなっていた。
 まだ諦めていないクエードは部下たちを引き連れてエロスに飛び、エーテル乱流が来る前に大急ぎで撮影を済ませようとする。しかし間に合わず、エロスは彼の目の前で消滅してしまった。万事休すかと思われたが、エロスが消えた後の虚空をビルがじっと見つめていることに気づいたキャサリンは、試しにフィルムを現像してみてほしいとクエードに頼む。ビルの眼は赤外線や紫外線を感知できるのだ。クエードが紫外線フィルタを使ったところ、虚空と見えたところには絢爛たる異界の光景が広がっていた。エーテル乱流の正体は時空連続体に空いた穴であり、その穴から異次元の惑星が見えていたのだった。
 こうしてクエードは値千金の映像を手に入れ、結果的に撮影は大成功ということになった。ビルたちは十分に高い知能を備えているとわかったのでガニメドの主権を認められ、私企業がラジウムを採掘することはできなくなった。そしてキャサリンはナインプラネッツ社長のフォン=ゾルンから女優としての初仕事をもらえたのだった。めでたしめでたし。
 よく言えば軽妙、悪く言えば軽薄な作品だ。ただしお色気要素は皆無なので、「月世界ハリウッドを書いたんなら月世界娼館も書けるんじゃね?」というスミスの発言は単なる語呂合わせだったようだ。カットナーはいい面の皮だが、スミスも毒を吐きたくなることはあるのだろう。