新・凡々ブログ

主にクトゥルー神話のことなど。

人には測り知れざる洞窟

 ラヴクラフトの友人だったケネス=スターリングの回想記は"Caverns Measureless to Man"という題名で、これはサミュエル=コールリッジの「クーブラ=カーン」の一節に因んだものだと一昨日の記事で申し上げた。スターリングはラヴクラフトと「エリックスの迷路」を合作した人だが、私の知る限り回想記には邦訳がない。非常に心温まる良い文章なので少しだけ紹介させていただきたいが、その前に「クーブラ=カーン」の出だしを引用しておく。

In Xanadu did Kubla Khan
A stately pleasure-dome decree:
Where Alph, the sacred river, ran
Through caverns measureless to man
Down to a sunless sea.

The Project Gutenberg eBook of The Complete Poetical Works of Samuel Taylor Coleridge, (1 and 2), by Samuel Taylor Coleridge.

ザナドゥにてクーブラ=カーンは宣したり
壮麗なる歓楽の宮を築くべしと
聖河アルフの流れるところ
人には測り知れざる洞窟を
流れ流れて無明の海へ

 この4行目がスターリングの回想記、5行目がゲイマンの小説の題名になっているわけだ。話を戻すと、スターリングが初めてラヴクラフトの家を訪れたのは1935年のことだった。先週スターリングという子が訪ねてきたとラヴクラフトは1935年3月16日付のロバート=バーロウ宛書簡で報告している。スターリング自身は「火曜日の出来事」と証言しているので、1935年3月5日に二人は初めて顔を合わせたのだろう。スターリングは1920年7月29日生まれであり、当時はまだ14歳だったことになる。そんなに若い客人はさすがに珍しかったのか、スターリングの来訪を知らせてくれたときの叔母は少々おもしろがっている様子だったとラヴクラフトは述べている。
 スターリング少年は来月にはニューヨークへ転居する予定ですとラヴクラフトは1935年6月4日付のダーレス宛書簡で述べているので、彼が日常的にラヴクラフトと面会できたのはせいぜい4カ月間に過ぎなかったのだろう。スターリングはその時期を「至福の時」と呼び、ラヴクラフトの喋る様子を次のように振り返っている。

ラヴクラフトの声には特徴があった。うまく描写できないのだが、聞けば一瞬でわかる声だった。彼の話し方は明瞭で正確で速やかだった。口調は砕けていても、すばらしい英語だった。ジョンソン風の掉尾文で喋る人だとはいわないが、いま思い返すに彼の話す言葉は彼の書く文章とそんなに異なってはいなかった――彼の手紙と小説にもさほど隔たりはなかったが、明らかに書簡や会話のほうが小説よりも伸びやかで、ずっとユーモラスだった。きわめて真剣な彼の作品を読んでもわからないラヴクラフトの一面がそこにはあった。直に会ったり手紙を書いたりしているときは彼は剽軽になることもできたのだ。だが彼の言葉はすべて――語られたものであれ書かれたものであれ、おどけているときも真面目なときも――一貫して純然たるラヴクラフトなのだった。

 ラヴクラフトの声は甲高かったとアルフレッド=ガルピンが証言しているが、話し方はハキハキしていたようだ。
 ラヴクラフトは生涯の最後までスターリングとの文通を続けた。スターリングは1936年9月に16歳でハーバードに入学したが、ラヴクラフトほどすばらしい先生に大学で出会うことは一度もなかったと述べている。ちなみにダーレスも名門マディソンで学び、ヘレン=ホワイト*1やマックス=オットーといった学者に師事したのだが、彼がホフマン=プライスに宛てて書いた1948年3月18日付の手紙には「12年間にわたり、私にとってラヴクラフトはソークシティの外にいる人物でもっとも重要な交流相手でした」とある。
 晩年のラヴクラフトは貧困に苦しんだり*2ドジな失敗をしたり*3することもあったのだが、スターリングの回想記では深い叡智と人徳に満ちた人物として描かれている。だがスターリングとブロブスト・バーロウの証言は決して矛盾するものではない。ラヴクラフトは自分の限界や障壁を知りながらも紳士らしくあろうとし続け、そんな姿は若いスターリングにとって良い手本となっていたのだろう。ラヴクラフトが世を去ったとき、スターリングはウィアードテイルズの1937年7月号に追悼文を寄せている。

ラヴクラフトを知るものはすべて彼を愛し尊敬していたが、それは彼の雅量ゆえだった。ラヴクラフトは至高の知性の持ち主だった――彼を超える人には会ったことがない……信じがたい知識の宝庫だった――あらゆる分野の学問に精通していた。この偉大なる学識に加え、ラヴクラフトにはすぐれて分析的な知性があった――彼の思考は鋭利なまでに論理的で、いかなる偏見も狭量さもなかった。ラヴクラフトの小説から思い浮かべられる人物像とは裏腹に、彼は確固たる唯物論者にして因習打破主義者であり、そのことは彼の書簡や論文に示されている。ラヴクラフトの会話は超越的なまでにすばらしく、彼の非凡なる文章をも上回るほどだった。ラヴクラフトは熱意と至誠の人であり、彼を取り巻く友人たちに多大なる影響を及ぼしていた……ラヴクラフトは作家としてだけではなく、学者そして思想家としても記憶にとどめられるにふさわしい人物であるように思われる。

 これを書いたときスターリングはまだ16歳だったということには留意しておく必要があるだろう。だが1975年に発表された"Caverns Measureless to Man"の締めくくりで彼は次のように言い切っている。
「今だって私は一語たりとも変える理由がない」

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*1:俺の先生 - 新・凡々ブログ

*2:ハリー=ブロブストに夕食をおごってもらっている。

*3:バーロウと一緒にブルーベリーを摘みに行って川で転んだ。