新・凡々ブログ

主にクトゥルー神話のことなど。

幻想文学における人種主義

 前回の記事*1で紹介したレイドローの作品はあくまでもフィクションだが、ラヴクラフトが人種主義者であったこと自体は事実だ。人種差別の撤廃を訴えるジェイムズ=F=モートンラヴクラフトと論争し、そのことがきっかけとなって二人の親交が始まったという逸話もある。*2
 ラヴクラフトを始めとする幻想作家と人種主義の問題については、アフリカ系米国人の作家チャールズ=R=ソーンダーズが1975年にエッセイを発表しており、現在も本人の公式サイトで読むことができる。一読に値する文章だと思うので紹介させていただこう。
reindeermotel.com
 ソーンダーズはまずラヴクラフト・スミス・ハワードの3人について論じている。ソーンダーズによればラヴクラフトは単純な差別主義者、C.A.スミスはもっとも進歩的、ロバート=E=ハワードは複雑な人物であるという。ハワードの作品を分析したくだりは中でも興味深い。

ハワードの怪奇幻想文学には、ケルト系の祖母と黒人の老女から幼年期に聞いた話の組み合わせが基になっているものもある。黒人の老女の話を聞いたことで罪悪感と恐怖を覚え、それがハワードの声高な白人優越主義を弱めることになったのかもしれない。

 ハワードの感じた「恐怖」の例としてソーンダーズが挙げているのは「鳩は地獄から来る」と「死人は憶えている」だ。前者は有名な傑作、後者は48年前にミステリマガジンに載ったきり忘れ去られている作品だが、どちらも黒人による復讐を扱っており、黒人を虐げる白人がふさわしい報いを受けるという内容だ。また「罪悪感」が反映されている例としては、ソロモン=ケインが主役の「はばたく悪鬼」が挙げられている。

これらの作品を見るに、ハワードの人種主義は単なる憎悪と憤懣から成り立つものではなかったようだ。ハワードを悩ませていたのは、社会心理学者が「認知的不協和」と命名したもの、すなわち矛盾する信念の衝突だったのかもしれない。人種主義者であることは当然であり、正しいのだと当時の世間知はハワードに告げていた。一方では何か別のものが、もしかしたら彼の良心が、おまえは間違っていると囁いていたのかもしれない。ハワードがその不協和を解決できるほど長生きしなかったのは不幸である。

 ソーンダーズは言及していないが、ソロモン=ケインの朋友であるアフリカ人の大呪術師ンロンガが活躍する「死霊の丘」もおもしろい作品だと個人的には思う。たった二人で吸血鬼の大群を殲滅するケインとンロンガが無敵すぎる話なのだが、ンロンガの差し出した手をケインががしっと握るラストシーンがかっこいい。おそらく、人種や民族の違いに勝るものは友情だというのがハワードの信念だったのだろう。
 続いてソーンダーズはリン=カーターとスプレイグ=ディ=キャンプを取り上げ、彼らがパルプ小説の悪しき伝統を墨守していることを批判している。このエッセイにおいて、もっとも痛烈な部分といってよいだろう。

 一方、カーターとディ=キャンプはコナン以外の作品では古色蒼然たる偏見を実践し続けている。より直截なハワードの人種主義を彼らがいくらか改善したのは結構だが、剣と魔法の物語における彼ら自身の成果は反動的なものだ。カーターもディ=キャンプも学識ある人物であり、もっと分別があってもよさそうだということを思うと、この現状はますます嘆かわしい。彼らの本はよく売れているので、幻想文学のファンは人種主義などほとんど気にしないのだろう。
 だが私は気にするのだ。よって拙文をまだ読んでくれている方々がすでに抱いているであろう疑問に私はお答えしなければならない。「嫌いなら読まなければいいんじゃないですか?」だが私はファンタジーが好きだ! ファンタジーは私がもっとも好きな文学だ。私が嫌っているのは、ファンタジーにおける人種主義だ。

 ラヴクラフトの人種主義を過去のものとして片づける人間が自ら差別に荷担していることがあるという告発だ。カーターとディ=キャンプは自分自身に対する甘さやいいかげんさ、慣習に流されてしまう弱さを批判されているといってもよい。ラヴクラフトはとっくの昔に世を去ったが、だからといって彼の人種主義に無頓着でいれば差別は容易に再生産されてしまうということをソーンダーズの文章は指摘している。
 2010年代になってからソーンダーズはこのエッセイを振り返り、1970年代に比べると現在は状況がだいぶ改善されていると述べている。それでも、彼が提起した議論とは今なお真摯に向き合っていくべきなのだろう。