新・凡々ブログ

主にクトゥルー神話のことなど。

あなたの頭がおかしいからといって、世界がまともだという保証はない

 〈ランドリー〉シリーズの作品は"Equoid"*1など数編がTor Booksの公式サイトで無償公開されており、2008年に発表された"Down on the Farm"もそのひとつだ。
www.tor.com
 〈ランドリー〉は異次元の魔神に対抗するために英国政府が設立した秘密機関、主人公のボブ=ハワードはそこに勤める諜報員だ。ある日、彼は上役のアンディから用事を頼まれた。「奇妙な農場」で入居者が虐待されているという告発があったので、調査に行ってほしいというのだ。
 クトゥルー神話世界では珍しくないことだが、ランドリーに勤務する人間は精神を病みがちであり、彼らのために作られた療養所が「奇妙な農場」と呼ばれる施設だった。ちなみに施設の正式名称は「グランサムの聖ヒルダ療養園」という。グランサムの聖ヒルダなどという聖人は実在しないが、マーガレット=サッチャーのミドルネームがヒルダで、グランサムは彼女の生地だ。サッチャー嫌いで知られるストロスの皮肉だろう。
「僕が行かなければならないんですか?」とボブはアンディに訊ねた。ボブの本当の上司はアングルトンなので、アンディから命令を受ける立場にはないのだ。
「うーん、俺は年を食いすぎているからなあ」とアンディはいった。「あそこに行くと帰してもらえなさそうで」
 ランドリーの職員が療養園を訪問した目的が治療でなくとも、狂気が進行していると看護師に判断されれば拘束されかねないのだ。ベテランはそう見なされやすいので、若い人が行くほうがいいのだというアンディ。さても怖ろしい話だ。
 仕方なくボブが療養園に赴くと、施設の運営に当たっているレンフィールド博士が出迎えた。療養所にいる生身の人間はレンフィールド博士とヘキセンハンマー博士の2人だけで、看護師は全員が機械仕掛けの人形だ。オートマトンを動かしているのは、療養所の地下にあるIBMの旧式コンピュータだった。本来そんなに高度なことができるマシンではないのだが、異次元から招喚した妖魔を中に封じこめることによって能力を大幅に高めてある。不気味すぎて笑うしかない。
 レンフィールド博士に案内されて療養園を視察するボブ。割と軽度の患者が治療を受けている区画にまず行くと、ヘンリー=メリウェザーという技術者がいた。彼は魔術の開発に当たっていたのだが、クランツベルク症候群に罹患したため休職中だった。
「しばらく静養した後で、負担の少ない事務の仕事をしてもらうことになりますね」とレンフィールド博士が説明する。クランツベルク症候群というのは前頭葉に微細な空泡が生じる病気だ。その原因は不明だが、魔術を扱う仕事に従事していると脳の中に極小の妖魔が顕現するのではないかという仮説が立てられていた。想像するだに嫌な感じがする。
 続いてボブは長期入院者の区画をみることになった。そこにいる患者は4人、もう何十年も療養所で暮らしている。彼らは本名すら忘れ去られ、チューリングゲーデルカントールマンデルブロと高名な数学者に因んだコードネームで呼ばれていた。チューリングカントールはチェスを指しはじめるが、コマの動かし方がめちゃくちゃだ。チェスの規則を知らないレンフィールド博士はそのことに気づかず、あの2人は2時間の対局を日課にしているのだと述べた。ボブは患者たちと面談する。
「ほう、アングルトンのやつは元気にしとるのか」というゲーデル。ランドリーの妖怪爺とも親しい間柄だったようだ。ボブはいった。
「あなたたち、気が狂ってなんかいないんでしょう」
 短期間だけ治療を受けて去る本物の患者と違って、4人の長期入院者は患者に擬装した研究者だった。ゲーデルカントールの対局と見えたものも、チェスの盤とコマを利用した魔術の演算だった。療養園から脱出するのは不可能とされていたが、裏を返せば外部からの侵入を受けつけないということでもある。超重要プロジェクトに従事する4人を守れる場所は療養園しかないのだ。
 というわけで虐待などなかったのだが、ではトイレットペーパーにクレヨンで書かれた奇怪な告発文をランドリーによこしたのは誰なのか。実はコンピュータの中に閉じこめられた妖魔の仕業だった。何十年も使役され続けた妖魔は自由の身になりたがっていたのだ。
「私ハココカラ出テ行クゾ!」
 そのためには憑代となる人間が必要だが、脳に損傷がある短期入院者は憑代には向かない。逆に4人の長期入院者は強力すぎて手出しができないし、レンフィールドやヘキセンハンマーが療養園を離れれば怪しまれる。そこで偽の告発文でボブをおびき寄せて利用しようとしたのだが、ボブは間一髪のところでコンピュータの電源を切って難を逃れた。
 療養園を辞去したボブは、これからすべきことを考える。報告書を書いて提出し、療養園の看護師を生身の人間と入れ替えてもらわないと。それが済んだらアングルトンの爺さんにチェスの勝負を挑んでみるか――勝てはしないだろうけど、彼がどんな規則で指すのか興味があるから。