新・凡々ブログ

主にクトゥルー神話のことなど。

美しき令嬢

 先日デイヴィッド=H=ケラーの"The Beautiful Lady"を読んだ。2000年にアーカムハウスから刊行されたArkham's Masters of Horror にのみ収録されており、他では読むことのできない作品だ。
 クトゥルー女体化の元祖として有名になってしまった感のあるケラーだが(参照)、本業は医者だ。ペンシルヴェニア大学で精神科を専攻し、医学博士の学位を取得したという。「創作に没頭できるだけの時間がケラーにあれば一流の作家になれるのでしょうけど、あの人は病院の院長先生ですからねえ」とラヴクラフトはダーレス宛の手紙に書いている。
 ケラーは軍医でもあり、両大戦に従軍している。最終階級は軍医中佐。1880年生まれでありながら朝鮮戦争の頃まで陸軍で勤務していたそうだが、たぶん米軍最高齢の佐官だろうとピーラー=ルーバーは述べている。
 またケラーはアーカムハウスとも縁の深い人物だ。アーカムハウスの資金繰りが悪化して危機に陥った1950年、ダーレスに大金を提供して支えたのはケラーだった。そのお金をダーレスは全額返済しているが、無利子・無担保・無期限での貸与だったというのだから脱帽するしかない。アーカムハウスにとって、ひいてはクトゥルー界にとって恩人というべきだろう。
 前置きが長くなったが、"The Beautiful Lady"の語り手はモーガンという男性だ。戦場で顔に傷を負ったため隠遁し、読書と園芸で日々を過ごしている。彼の兄弟であるジョンは美男子で、女性との交際や世界旅行を楽しんでいるが、すばらしい女性に出会ったという手紙をスペインから送ってきたきり消息を絶ってしまった。
 モーガンはスペインへ行き、ジョンの手紙に書いてあった女性のもとを訪ねる。彼女はペロニ女伯爵といい、年齢は18歳。ジョンが語った通り、確かに絶世の美女だった。女伯爵はモーガンに自分の身の上を語る。幼い頃に両親と死に別れ、天涯孤独の身である。17歳の時に恋人ができたが、妊娠したとたんに彼は自分を捨てようとした。自分は彼を殺し、生まれてきた赤子もすぐに死んでしまった……。
 花壇に六つの球体が並んでいる。女伯爵に言い寄った男たちの頭部だった。精神に異常を来した女伯爵は男たちを首だけ出して生き埋めにし、ゆっくりと時間をかけて殺したのだ。犠牲者の一人はジョンだった。真相を知ったモーガンは女伯爵を崖から突き通して殺害する。
 この話をケラーが書いたのは1962年だそうなので、すでに80歳を過ぎていたことになる。発表することを意図して書かれた作品ではなく、ケラーの没後ずっと埋もれていたのをルーバーが発掘して単行本に収録した。表面的にはどうということのない話なのだが、この作品に現れているケラーの女性嫌悪ミソジニー)についてルーバーが背景を説明している。
 幼少期のケラーは発音が不明瞭で、彼が喋っていることを理解できるのは姉のアンナだけだった。こんな醜い子は見たことがないと親戚からも嘲られるケラーとは対照的に、アンナは美しく聡明な少女だったが、病気のせいで夭逝してしまう。大好きなお姉さんを失ったケラーはひとりぼっちになり、息子に悪魔が憑いていると信じる母親から虐待されながら成長していったと彼の自伝にある。この悲惨な体験が作品に影を落としたらしいのだが、さすがに潤色があるのではないだろうか。というか、そうとでも思わなければ私が精神の安定を保てない。
 ひどく辛いものを見てしまった思いがするが、私はケラーに感謝している。彼がいなければアーカムハウスは存続できず、今日のクトゥルー界もありえなかったのだから。