新・凡々ブログ

主にクトゥルー神話のことなど。

レッドソニアの物語

 ロバート=E=ハワードの"The Shadow of the Vulture"を前に紹介したことがある(参照)。キャラクターを創造するのがこんなに楽しかったことはないとハワードがラヴクラフトに語ったほど彼のお気に入りの作品だったが、私の知る限り邦訳は存在しない。レッドソニアの元ネタになった作品ということで興味を覚える方もおられるだろうから、もうちょっと詳しい粗筋を書いておくことにする。
 モハーチの戦いで大勝したオスマン帝国ハンガリーの中央大平原を切り取って帝国領とし、さらに中欧全土を併呑しようとしていた。オーストリア大公フェルディナントは和平交渉のために使節団を派遣するが、使節団長ハボルダンスキーの態度が不遜であったためオスマン皇帝スレイマン1世を怒らせてしまい、彼らはイスタンブールに拘留されることになった。9カ月ぶりに解放されてオーストリアに帰れることになった使節たちがスレイマン大帝に謁見しているところから物語は始まる。
 使節の一人ひとりに200ダカットの金貨を下賜し、気前のいいところを見せる大帝。彼は一人の男に眼をとめた。ひときわ背が高く、がっちりした体格の男だ。呼ばれて前に進み出た男に大帝は声をかけた。
「おまえとはどこかで会ったような気がするな。名前は何という?」
「ゴットフリート=フォン=カルムバッハと申します。ロードス島におりました」
 ロードス島といえば、オスマン帝国軍聖ヨハネ騎士団が激闘を繰り広げた地だ。二人の会話はそこで終わったが、ハボルダンスキー将軍とその随身が退出した後で大帝はイブラヒム=パシャを呼び寄せた。奴隷の身分から大宰相まで出世した男で、オスマン帝国において大帝に次ぐ実力者である。彼の思い通りにならないのは大帝の寵姫ロクセラーナだけだった。
「あの男をどこで見たのか、ようやく思い出したぞ」と大帝はイブラヒムにいった。
 モハーチの戦いの時、前線を視察していた大帝を32人の騎士が急襲したことがあった。彼らはオスマン帝国軍を蹴散らしながら突進し、31人までは銃火の前に倒れたが、最後の一人が大帝の肩に一太刀を浴びせたのだ。その騎士こそはゴットフリート=フォン=カルムバッハに他ならなかった。
「あの犬どもの首は陛下の本陣の前に積まれたはずですが――」
「そして余が自ら数えたのだったな。あの時は黙っていたのだが、首は31個しかなかった」と大帝はいった。「どういうわけか知らないが、奴は生き延びていたのだ。雨が降ると、あの時の傷が未だにうずく。余は勇士が好きだが、余の血はそれほど安くはないぞ」
 大帝に傷を負わせた男が生きていたとなると、捨て置けぬ事態だ。イブラヒムはただちに後を追わせたが、フォン=カルムバッハはいち早く使節団を離脱していた。「200ダカットを使い切るまでは、誰のために戦うつもりもない」と捨て台詞を残していったそうだ。
 フォン=カルムバッハを見つけ出して首を獲れとイブラヒムはミハログルに命じた。ミハログルは軽騎兵隊の指揮官で、オスマン帝国最高の殺し屋と目される人物。猛禽の翼を鎧に飾り、キリスト教諸国では死神のように怖れられている。ハワードがラヴクラフトに宛てて書いた1933年11月3日付の手紙によると、彼は実在の人物だそうだ。
 ミハログルもゴットフリート=フォン=カルムバッハのことは知っていた。彼はドイツの貴族の家に生まれたのだが、酒と女で身を持ち崩したという無頼漢だ。聖ヨハネ騎士団に所属していたこともあるが、不品行のために放逐されてしまった。そうはいっても、ゆめゆめ侮ってはならないとイブラヒムはミハログルに言い渡した。
 それからしばらく時が経ち、ゴットフリートはドナウ川沿いの村で飲んだくれていた。彼が使節団から抜けたのはハボルダンスキーたちに累が及ぶのを避けるためではないかと思ったのだが、スレイマン大帝からもらった金貨で面白おかしく暮らさせてもらうというのは少なくとも本気だったようだ。
「ほら、しゃんとして! このボケナス!」イヴガという少女が彼を叩き起こそうとしている。もう文なしになっているゴットフリートは、自分の兜を質屋に持っていってくれとイヴガに頼んだ。そのお金でまた飲もうというのだ。
「バカ、お金が欲しいんじゃないの!」イヴガは叫んだ。「東の空が赤く燃えてるのよ!」
 ミハログルがやってきたのだ。彼に率いられた部隊は村を焼き払い、住民を片端から殺戮していく。ゴットフリートはイヴガを連れて村から脱出しようとしたが、少女は流れ矢に当たって命を落とした。ゴットフリートは独り愛馬にまたがり、血路を切り開いて森の中に姿を消した。
 1529年9月、スレイマン大帝は数十万の大軍を率いて中欧に親征した。目指すはウィーンである。追われる身となったゴットフリートがウィーンに辿りつくと、オスマン帝国軍がもうじき来るというので城内は大騒ぎになっていた。防衛軍の総司令官を務める老将ザルム伯爵は、老朽化した城壁の補強工事を急ピッチで進めている。都市全体を要塞化してオスマン帝国軍の包囲に備える算段だ。その最中、行き場を失った5000人の難民が城外に追い出され、たちまちオスマン帝国軍の餌食になるという事件があった。
 臨戦態勢の街を気に止める風でもなく、ゴットフリートはビールを呷っていた。むごい目に遭わされた難民たちのことを思って涙を流すゴットフリート。その件でザルム伯爵に決闘を申しこもうと彼は立ち上がったが、酔っぱらって歩くうちに城壁の上に来てしまう。オスマン帝国の大軍がウィーンを完全に取り囲んでいるのを一望して、ゴットフリートは素面に戻った。
 戦闘が始まり、オスマン帝国軍がじりじりと前進してくる。砲声と硝煙が立ちこめる中でゴットフリートが見たのは、悠然と大砲を操作する美女の姿だった。深紅のマントを無造作に羽織り、頭にかぶった鉄兜からは燃えるような赤毛がこぼれ出ている。
「頼んだぞ、レッドソニア!」周囲で兵士たちが囃し立てる。
「任せときな。でも本当はロクセラーナを標的にしたいんだけどね――」
 そういうと彼女は大砲をぶっ放した。砲弾は狙い違わず命中し、城壁に接近しつつあった敵の砲兵隊を粉砕する。兵士たちはどっと歓声を上げ、レッドソニアは軽やかなタップを踏んでみせた。一方ゴットフリートが何をしているかというと、レッドソニアの巨乳を観察している。
「どうしてロクセラーナを標的にしたがるんだ?」とゴットフリートは訊ねた。
「あいつが私の姉妹だからよ!」というのがレッドソニアの返事だった。どちらが姉なのか知りたいところだが、ハワードは明らかにしていない。そういうことを米国ではあまり気にしないものと見える。
 そのとき、鬨の声が上がった。オスマン帝国兵が城壁にとりついたのだ。ゴットフリートは刃渡り5フィートの剛剣を振るい、梯子で登ってくる敵兵を迎え撃った。取り囲まれて窮地に立たされたゴットフリートにレッドソニアが加勢し、彼らはとうとう敵を退けることに成功する。
「あんたが助けてくれなかったら、今夜は地獄で晩飯を食う羽目になってたぜ」といって、ゴットフリートは手を差し出した。「ありがとさん――」
「感謝は悪魔にしな!」レッドソニアは彼の手を払いのける。「敵がいたからだよ。あんたが好きで一緒に戦ったわけじゃないから、勘違いしないで!」
 9月が過ぎ、10月になった。ある日オスマン帝国軍が攻撃を中断し、ウィーン防衛軍の兵士たちも束の間の休息を楽しむ。値段のつり上げを目論んだ商人が大量の酒を隠匿していたのが見つかり、それをザルム伯爵が自腹で買い上げてくれたので、お祭り騒ぎになった。お相伴に与っているゴットフリートにレッドソニアが話しかけてくる。
「また飲んだくれてるのかい?」
「スルタンの情婦と姉妹だからって、お高くとまるんじゃないよ」とゴットフリートはいい、たちまち喧嘩になった。
「残念な奴だね」というレッドソニア。「トルコ兵より酒樽を相手にする方が得意だなんてさ!」
「敵は遠巻きに大砲を撃ってくるからな。どうやって斬り合いしろというんだ?」
「城壁のすぐ外に何千といるじゃないか。出て行く度胸があんたにあればね」
「おお、抜かしたな!」ゴットフリートは憤然と剣をひっさげ、城門に向かう。他の兵士たちも酔った勢いで後に続いた。
「待て、勝手に出撃するな!」隊長のウルフ=ハーゲンが慌てて制止しようとしたが、もう間に合わなかった。
 ゴットフリートたちの奇襲によってオスマン帝国軍は大混乱に陥ったが、やがて陣形を立て直した。多勢に無勢ということに気づいた酔いどれたちは逃げだし、彼らに押し流される形でゴットフリートも退く。追撃してくるオスマン帝国兵を橋のところで迎え撃ったのはウルフ=ハーゲンだった。
 敵兵に追い立てられたゴットフリートは堀に転落してしまう。どうにか対岸まで泳いで渡ったものの、這い上がることができない。溺れそうになっている彼の襟首を掴んでくれたのはレッドソニアだった。
「さっさと上がってきて! 私の腕じゃ、あんたの図体を支えきれないんだから」
 力を振り絞って水から出たゴットフリートは、レッドソニアにつれられて城内に駆けこむ。夢から覚めたように、彼は訊ねた。
「ハーゲン隊長は?」
「死んだよ」
 ウルフ=ハーゲンは20人のオスマン帝国兵を道連れにし、戦死していた。部下たちが城内に入る時間を稼ぐために命を捨てたのだ。そのことをレッドソニアから聞いたゴットフリートは座りこんで泣き出す。
「めそめそしない!」レッドソニアはゴットフリートに蹴りを入れた。「バカなことをしたもんだけど、済んでしまったことは仕方ないさ。一緒に来て飲み直そうか」
「どうして俺を堀から引っ張り上げてくれたんだ?」
「あんた、自分で自分の面倒を見ることができないじゃないか。あんたみたいなアホが生きていくためには利口な人間が必要だね。私とか」
「俺、あんたに嫌われてると思ってたんだけどな!」
「き、気が変わることだってあるわよ」というレッドソニア。まるっきりツンデレである。
 酔いに任せて無茶な真似をしたゴットフリートたちだが、彼らの攻撃には思わぬ効果があった。ウィーン市内の間者と呼応して城壁を破壊し、一気に突入する作戦を大宰相イブラヒムが立てていたのだが、奇襲があったために計算が狂ってしまい、失敗に終わったのだ。これは悪魔の配剤としか思えませんとイブラヒムはスレイマン大帝に報告した。
「負けは負けだ」辛辣な言葉をイブラヒムに投げつける大帝。だいぶ立腹している。「計略が役に立たぬのなら、力で押すしかあるまい」
 オスマン帝国軍の総攻撃が始まる。ゴットフリートは城壁の上に立ち、押し寄せてくる敵兵を相手に剣を振るい続けた。司令官のザルム伯爵も彼の傍らで傷つき、死んでいく。機械と化したかのように戦い続けるゴットフリートを見かねたニコラ=ズリンスキが休養を命じた。ちなみにズリンスキも実在の人物だ。
 暗い路地をさまようゴットフリートに酒杯を差し出した者がいた。兵士に対する労いなのだろうと思ったゴットフリートは杯を受け取って呷るが、途端に意識を失ってしまう。気がつくと彼は縛られていた。ゴットフリートに一服盛ったのはツォルクそしてルペンというアルメニア人の親子で、彼をミハログルに売り渡そうとしていた。そこにレッドソニアが飛びこんできてゴットフリートを助け出し、ツォルクとルペンを捕える。同時に鐘の音が鳴り響いた。
「シュテファン大聖堂の鐘だ」とレッドソニアはいった。「勝ったんだ!」
 スレイマン大帝の命令により、オスマン帝国軍が撤退していく。欧州の覇者になるという大帝の野望は潰えたのだ。だがミハログルに狙われている限り、俺は枕を高くして眠れないとぼやくゴットフリート。レッドソニアは一計を案じ、ゴットフリートの身柄を確保してあるとミハログルに伝えに行けとツォルクに命じる。息子のルペンを人質に取られたツォルクは震えながら出かけていった。
 ツォルクの言葉を聞いたミハログルは副官の諫言も聞かず、わずかな手勢を引き連れて罠の中へ赴く。死神のように怖れられたミハログルだが、自信過剰が命取りになった。一斉射撃の音が彼方から聞こえ、自分たちの指揮官が二度と帰ってこないことを知った兵士たちは逃げるように立ち去った。
 イスタンブールではスレイマン大帝が豪奢な祝賀会を催している。廷臣がイブラヒムのもとに包みを持ってきた。
「それは何か?」と大帝は訊ねた。
「アドリアノープルからの早馬で運ばれてきたのです」とイブラヒムは説明した。「おおかたオーストリアの犬からの貢物でございましょう」
「開けよ」
 包みが開封される一方、添えてあった羊皮紙が読み上げられる。大帝スレイマン・大宰相イブラヒム・寵姫ロクセラーナにささやかな贈物をすると羊皮紙にはしたためてあり、レッドソニアとゴットフリート=フォン=カルムバッハの署名がしてあった。包みの中から転がり出てきたものを見て、大帝と大宰相は蒼白になる。それはミハログルの首だった。その一瞬、大帝の栄光は確かに崩れ落ちたのだった……。
 ここで物語は終わっているが、その後ロクセラーナはイブラヒムとの権力闘争に勝利して彼を刑場に送り、スレイマン大帝とともに大帝国を統治した。一方、レッドソニアはゴットフリートと一緒に冒険の旅に出たということがハワードのラヴクラフト宛書簡で示唆されている。ハワードが話の続きを書かなかったことが惜しまれる。