新・凡々ブログ

主にクトゥルー神話のことなど。

『幽霊狩人カーナッキ』余話

 『心霊博士ジョン・サイレンスの事件簿』が刊行されてから2年後、1910年にウィリアム=ホープ=ホジスンが幽霊狩人カーナッキの物語を発表した。ラヴクラフトがジョン=サイレンスを愛読していたことは有名だが、カーナッキに対する評価はどうだったのか。1934年11月6日付のダーレス宛書簡を見てみる。

人によって嗜好が違うというのは興味深いものですね――『ナイトランド』はカーナッキよりも遙かに優れた作品だとクラーカシュ=トンは考えているのですよ……もちろんカーナッキがジョン=サイレンスのごく凡庸な模倣に過ぎないことは火を見るより明らかです。でも『異次元を覗く家』と『<グレン・キャリグ号>のボート』を読まずにホジスンを判定してはいけませんよ。

 ずいぶんと手厳しいが、この頃はラヴクラフト自身がC.H.コーニグから『異次元を覗く家』を借りて読み、ホジスンに対する評価を大幅に上方修正したばかりだった。ラヴクラフトは1934年に「文学における超自然の恐怖」を改稿し、ホジスンについて論じた箇所に『異次元を覗く家』のことを追加している。
 ラヴクラフトは同じ時期に『ナイトランド』も読んでいるが、その本もコーニグから借りたものだった。コーニグはクラーク=アシュトン=スミスに本を送り、それをダーレス経由でラヴクラフトに転送して皆で回し読みしたという。スミスは『ナイトランド』を高く評価したが、ダーレスは退屈さに耐えきれずに途中で投げ出している。先ほど引用したラヴクラフトの手紙に「嗜好が違う」とあるのは、そのことを指している。スミスは百科事典を通読するような人だから、面倒くさい長文をじっくり読むことも苦にならなかったのだろう。なお「文学における超自然の恐怖」を読むに、ラヴクラフト自身の評価はスミスとダーレスの中間といったところだったようだ。
 それから12年後、1946年にアーカムハウスから刊行されたホジスンの作品集には「ナイトランド」も収録されている。また1947年にはマイクロフト&モーランから『幽霊狩人カーナッキ』が刊行された。1948年にジョン=ディクスン=カーが「埋もれた傑作」のアンソロジーを編むことを思い立ち、その本にカーナッキの話を収録しようとしたが、前年にダーレスが発掘済だとエラリー=クイーンから知らされて落胆した――という逸話が『クイーン談話室』で語られている。クイーンがダーレスを「我々の共有の友人」と呼んでいるところを見るとカーもダーレスと親しかったのだろうが、二人が一体どういう縁で知り合ったのか気になるところだ。

クイーン談話室

クイーン談話室

自転車に乗ったラヴクラフト

 ラヴクラフトは1934年8月の下旬に初めてナンタケット島を訪れたと『H・P・ラヴクラフト大事典』にある。この年のラヴクラフトはロバート=バーロウに招待されて5月から6月までフロリダに滞在し、その後ニューヨークに行ってロング一家と一緒にニュージャージーを観光、さらにジェイムズ=F=モートンと連れ立ってニューポートへ――と活発に旅行している。1934年は「ラヴクラフト・サークル」の全盛期といった趣があるが、ラヴクラフト自身もなかなか充実した日々を送っていたようだ。
 ラヴクラフトはナンタケット島がだいぶ気に入ったらしく、いろいろな友達に宛てた手紙でその話をしているのだが、1934年9月8日付のクラーク=アシュトン=スミス宛書簡から少し訳出してみよう。ちなみにナンタケット島はラヴクラフトの家から90マイル(144キロメートル)離れており、バスと船を乗り継いで6時間の旅だったそうだ。

お送りしたパンフレットでナンタケット島の雰囲気を感じ取っていただけるでしょう。何という土地! あそこまで完璧に史跡が保存されているところは他にありません――チャールストンケベック・セイレム・ニューポート――どこもナンタケット島にはかないません。古い街並みは1世紀前からまったく変わっていないのです――植民地時代の家が建ち並ぶ丸石の舗道、馬をつないでおく柱と乗馬用の踏み台、風車に銀の表札、そして絵のような小道と波止場――何もかも島が捕鯨で栄えていた昔日のままです。ナンタケット島への入植は1660年、1692年まではニューヨークの一部でしたが、それ以来ずっとマサチューセッツ州に属しています。クジラのおかげで島は繁栄し、捕鯨産業が衰退すると島も寂れていきました。夏の行楽客が来るようになったので史跡が保存され、復元されたのです。私は古い通りや博物館や風車などを全部つぶさに見て回り、マリア=ミッチェル天文台の望遠鏡*1土星の輪を観測しました。島をぐるりと回るバスに乗って、かつて漁村だった風雅なシアスコンセットに行くことができました。郊外の探索には借りた自転車を使いました――自転車など乗るのは20年ぶりでしたよ。まことに若返った気分でしたね! 1週間の滞在中は3階の部屋に寝泊まりしていました――街や港や海がよく見えて絶景でした。

 楽しそうだ。スミス宛の書簡はプロヴィデンスに帰ってから書いたものだが、ダーレスには9月1日に現地から手紙を出している。そちらの手紙でもナンタケット島は絶賛されているが、寒いのが欠点だと述べているのがラヴクラフトらしい。また、わずかながら人工的で自意識過剰な印象を史跡から受けたとも述べているが、理想的すぎる島の風景に観光客向けの演出を感じ取っていたのだろう。
www.mariamitchell.org
 ラヴクラフト土星を観察したというマリア=ミッチェル天文台は、1908年に創立されたナンタケット島の天文台。名前は同島出身で米国初の女性の天文学者とされるマリア=ミッチェルに因んでいる。

H・P・ラヴクラフト大事典

H・P・ラヴクラフト大事典

*1:ダーレス宛の手紙によると5インチの屈折望遠鏡

作家が作家を語る

 ラヴクラフトと愉快な仲間たちの文通で怪奇幻想作家がどれだけ言及されているか数えてみた。英国怪奇三傑にエドガー=アラン=ポオとダンセイニ卿を加えた5人を対象とし、ラヴクラフトの文通相手として特に重要な5人について言及回数を調べることにする。使用したのは以下の書簡集だ。

  • Essential Solitude
  • Dawnward Spire, Lonely Hill
  • A Means to Freedom
  • O Fortunate Floridian
  • H. P. Lovecraft: Letters to James F. Morton

 結果は下の表のとおり。名前が太字になっているダーレス・スミス・ハワードの3人については往復書簡集を参照したので、ラヴクラフトではなく相手の側が話題にした回数も含まれていることに御留意いただきたい。

ブラックウッド マッケン ジェイムズ ダンセイニ ポオ
ダーレス 64 57 43 38 35
スミス 20 40 28 48 44
ハワード 4 14 4 7 18
バーロウ 8 14 4 23 18
モートン 3 6 1 6 14

 どの文通相手を見てもアーサー=マッケンへの言及は最多ではないが、平均をとると彼が一番手になる。三傑の筆頭格とされるアルジャーノン=ブラックウッドは意外と少ない。ただし、すべての言及が称賛でないことは言を俟たず、たとえばダンセイニの場合は「作風が変わってしまった」という嘆き節がそこそこ混じっている。またM.R.ジェイムズは高く評価されながらも「ブラックウッドやマッケンには劣る」という但書がつくのが常だ。
 ブラックウッドへの言及が意外に少ないと申し上げたが、その理由はひとつではないだろう。ハワードとのやりとりでほとんど言及されていないのは彼が読んでいなかったからだろうが、それだけではラヴクラフトにブラックウッドの作品を薦めたモートンの説明がつかない。ただ目新しい話題が乏しかったのは確かなようで、ラヴクラフトは1934年2月14日付のダーレス宛書簡で「最近ブラックウッドは仕事しているんでしょうか」などと訝っている。1934年といえばブラックウッドはもう65歳だが、その頃になっても仕事自体はしていた。ただしラジオの仕事なので、ラヴクラフトの眼にはとまらなかっただろう。一方マッケンのことはダーレスが1932年8月6日付のクラーク=アシュトン=スミス宛書簡でこんなふうに話題にしている。

昨日マッケンの「輝く金字塔」を手に入れました。それで思い出したのですが、今年マッケンはその作品が評価されて年金受給者のリストに名前が載り、毎年500ドル*1をもらえるようになったという朗報があります。

「マッケンの年金受給とはすばらしい報せです。たまには英国政府もまともなことをするときがあるようですね。残念ながら米国政府には全然ありませんが」とスミスは8月11日に返信している。マッケンが貧しかったのは有名な話だが、自分の懐具合を海の向こうで心配されていると知ったら苦笑いするのではないか。
 この表から何かを軽々しく断定することは避けるべきだろうが、ひとつだけ明白な事実がある。ダーレスとの文通ではブラックウッドが話題になる頻度が明らかに高い。これはブラックウッドに対するダーレスの思い入れの深さを裏付けるものだろう。そのことが確認できただけでも調べた甲斐があったと私は思っている。

*1:年金は当然ポンドで支払われるはずだが、ダーレスはドル記号を使っている。あるいは換算した値か。

アレクサンダー、アレクサンダー

 クラーク=アシュトン=スミスは1932年3月25日付のダーレス宛書簡でアルジャーノン=ブラックウッドの本の感想を述べている。

最近ブラックウッドの本を何冊か借りて読みました――Tongues of FireとThe Garden of Survivalです。どちらもたいへん気に入ったのですが、さらに良い作品をブラックウッドなら書いているのではないかと思います。

 The Garden of Survivalは未訳の長編小説。スミスが"Tongues of Fire"と呼んでいるのは短編「炎の舌」ではなく、Tongues of Fire and Other Sketchesという作品集のことだ。1924年に刊行され、表題作である「炎の舌」以外には「まぼろしの少年」「もとミリガンといった男」などが収録されているのだが、ほとんどは未訳のままになっている。その中から"Alexander Alexander"を紹介させていただこう。
 語り手は若い女性。幼い頃に両親を亡くし、おじのフランク=バートンが後見人になっているが、そのフランクおじにはアレクサンダー=アレクサンダーという知り合いがいる。つまり名と姓が一緒なのだが、そういう名前のつけ方は珍しいものの皆無ではないらしく、英語版ウィキペディアに実例の一覧があったりする。
en.wikipedia.org
 そのアレクサンダーは名前の呼び方にこだわる人だった。うっかり「アレクサンダー!」などと呼びかけようものなら「名前は正しく使いなさい」と冷たく言われてしまうのだ――と語り手は回想しているのだが、どうすれば正しくなるのかがわからない。敬称をつけろということなのかと思ったのだが、彼を「アレクサンダー様」と呼んだ召使いも訂正されているので違うようだ。あるいは発音の問題なのかもしれない。
 だが、アレクサンダーの正しい呼び方は実のところ大した問題ではない。重要なのは、彼女にとってアレクサンダーがいかめしく威圧感のある人物であり続けたという事実のほうだ。9歳の時、庭のガチョウにひどく怯えたことを彼女は振り返る。ガチョウのくちばしでズタズタに引き裂かれてしまいそうな気がした彼女が悲鳴を上げると、たちまちアレクサンダーが駆けつけてきた。安堵した彼女が名前を呼ぶと、彼は待たしても「アレクサンダーだ」と言い直すのだった。
 彼女が成長していくにつれて、アレクサンダーを見かけることは稀になった。1年ばかりパリに遊学した彼女が英国に戻ってきてから1週間後、21歳になる前の日にアレクサンダーがやってくる。だが召使いのトーマスに聞いても、来客などなかったといわれてしまう。そして自分のおじのフルネームがフランク=ヘンリー=アレクサンダー=バートンであることを彼女は思い出すのだった。
 彼女が書斎に行っても誰もおらず、窓が開け放たれていた。翌日おじは溺死体となって発見され、報告書には発作的な入水自殺と記録された。厳格で威圧的なアレクサンダーと、気が弱く心優しいフランクおじは同一人物だったという結末なのだが、おじの分身が実際に出現していたのかは定かでない。姪にしか見えなかったところを見ると、その時々で優しかったり厳しかったりするフランクおじを彼女が意識の中で二人の人物に分離させていたのかもしれない。隠された意味がありそうなのだが、そこまで深読みされることをブラックウッド自身は望んでいなかったような気もして、短い割に悩ましい話だ。

 真相が気になって仕方ないので、何か情報はないかとペンギン版のブラックウッド傑作選を確認してみた。この本に註釈をつけているのはS.T.ヨシだ。溺れる者はヨシをも掴むというわけだが、さすがに何も見当たらなかった。その代わりに"H.S.H."はHis Satanic Highnessの略であり、殿下の正体がサタンであることを意味しているなどという説が書いてあったのだが、ホンマかいな。
殿下

殿下

死者が汝の妻を寝取るだろう

 クラーク=アシュトン=スミスの"The Dead Will Cuckold You"を日本語に翻訳してみた。
www7a.biglobe.ne.jp
 これはゾティークを舞台にした戯曲で、執筆中であることをスミスは1951年2月22日付の手紙でダーレスに知らせている。4月15日、完成した作品がダーレスのもとに送られたが、このときスミスは原稿をシングルスペースで清書していたそうだ。出版社に送る清書稿はダブルスペースにするのが慣例なので、スミスは発表できるとは期待していなかったのだろう。
 折しもアーカムハウスThe Dark Chateau and Other Poemsと題するスミスの詩集を刊行しようとしていたが、"The Dead Will Cuckold You"を読んだダーレスは収録を見合わせると1951年5月18日付の手紙でスミスに伝えた。収録作を詩だけで統一したいからというのが理由だった。
 その後スミスはマイケル=デアンジェリスという人物に清書稿を渡したが、手許に残しておいた肉筆原稿の一部が焼失するという災難に見舞われた。原稿を復元するのは大変しんどい作業なのでデアンジェリスから清書稿を取り戻したいのだが、消息不明になっている彼の連絡先がわかるようだったら教えてほしいとスミスは1956年7月3日付の手紙でダーレスに頼んでいる。しかしダーレスもデアンジェリスの居場所を知らず、どうやらスミスは自力で作品を復元しなければならなかったらしい。スミスの没後、1963年になってジャック=L=チョーカーが"The Dead Will Cuckold You"を出版した。

 "The Dead Will Cuckold You"は長すぎるため『ゾティーク幻妖怪異譚』には収録しなかったと同書の訳者後書きにある。かくして今日まで日本語では読めないままだったのだが、ひとつだけ未訳というのはやはり画竜点睛を欠く感があるので、拙訳で恐縮ながら御高覧いただきたいと思う。ちゃんとした単行本として出版してもらえれば自分の作品も決してダンセイニ卿に引けをとらないはずだとスミスは1933年8月29日付のダーレス宛書簡で述べているが、翻訳の場合は「真っ当な訳者が手がければ」という条件が加わることになる。スミスの思いを無にしない仕事が自分にできたことを願うばかりだ。
 この戯曲の第4場でソメリスと会話するガレオルは本物の彼なのか、それとも魔物がよほど上手に演技していたのかは明言されていない。王妃がイリロトの名を唱えた後では、それまで「亡者」となっていた人物名が「ガレオル」に変わるので、おそらく前者なのだろう。だが、そうだとすれば淫魔の誘惑に屈しなかったソメリスも真正の愛とともに破滅を受け入れたことになり、スミスらしく皮肉の効いた結末だと思う。ヨロズにおけるイリロト信仰は暗鬱な傾向が強いというのも、人々が自由に愛し合うことを許されない地では愛が犠牲を伴いがちであることを指しているのではないか。
 クトゥルー神学の観点からイリロトは少し興味深いが、ボイド=ピアソンの作品目録によると"The Dead Will Cuckold You"にしか出てこない。*1一方、作中で何度か言及されるササイドンはゾティークの物語においてお馴染みの魔神だ。ゾティークの黒魔術師の中には「暗黒の偶像」のナミラハのように力に溺れて破滅した者もいるが、ナタナスナはうまくやっているように見える。ササイドンに仕えるからには、その辺の見極めが重要なのだろう。

眠っている人たち

 昨日の記事で言及した"The Sleepers"という短編のことをダーレスは1926年9月6日付の手紙でラヴクラフトに報告している。

申し上げるべきかどうか迷ったのですが、"The River"を書き直したらライト氏がついに受理してくれました。現在は"The Sleepers"を執筆中です。幽霊列車の話なのですが、ウィアードテイルズは幽霊譚の在庫が山ほどあるとライトからはいわれました。

 "The River"というのはマーク=スコラーとの合作で、ウィアードテイルズの1927年2月号に掲載された。*1ヴォルガ川にダムを建設するために招聘された英国人の技師が亡霊の祟りに遭うという話なのだが、戦間期ソビエト連邦を舞台にしている点が珍しい。
 "The Sleepers"の主人公はマッカーシーという作家。カリフォルニアからシカゴへ向かう寝台特急で遭遇した怪異を彼が客人たちに物語るという話だ。予約した個室で別の人物が寝ていたので、作家は車掌を呼んで苦情をいった。車掌と作家は寝ている男を起こそうとするが、その身体にはまるで手応えがない。真っ青になって顔を見合わせる二人。
「こんな不思議なことが」
 そういって車掌は同じ客車の他の個室を調べた。どの個室で寝ている乗客も姿ははっきり見えるのに、触ることはできないのだった。そのとき、車掌の青い制服を着た小柄な男が入ってきた。彼の様子は誰かに呼び出されたかのようだった――そこまで作家が語ったところで口を挟む者がいた。
「それは違います、マッカーシーさん。悪い予感がしたので確かめに来たのですよ」
 そう発言したのは青いスーツを着た小柄な男だったが、誰も彼の言葉を気にとめていないようだった。作家は話を続けた。
 小柄な男はかき消すようにいなくなってしまった。そして車掌と作家が振り向くと、そこで寝ていたはずの人物も消えていた。特急列車はペンシルベニアを通過中で、有名なホースシューカーブにさしかかったところだった。車掌はいった。
「1年前の今日、この場所で何があったか御存じですか?」
 ちょうど1年前、寝台特急の事故で77名の乗客が亡くなったのだという。そして作家が今いる客車は、その事故に遭った車両を再生して現役に復帰させたものだった。眠っていた人々は事故で死んだ乗客の幽霊だったのだろう。語り終えた作家は付け加えた。
「ところで、車掌の幽霊は悪い予感がしたから来たのだとおっしゃった方がいらっしゃいませんでしたかな? しかし、その車掌は即死してしまったので、事故の直前に何を考えていたのかはわかりようがないのですよ」
 青いスーツを着た小柄な男が座っていた椅子を皆は一斉に見たが、そこにはもう誰もいなかった。そして部屋のドアには内側から鍵がかけてあった……。
 この作品はウィアードテイルズの1927年12月号に掲載された。短い話なので挿絵もつかなかったが、ラヴクラフトは「達成しがたい効果において君の最良作のひとつ」「何気ない背景の扱い方も自然で質朴」と1927年10月28日付の手紙で褒めている。実際、ただ眠っているだけの幽霊の描写は過度におどろおどろしくならず、雰囲気のいい仕上がりになっていると思う。作家が話をしているところに車掌の幽霊が現れて突っこみを入れるという突飛な展開もここでは効果的だ。
 幽霊の話は余るほどあると言いつつ"The Sleepers"を受理したライト編集長の眼は節穴ではなかったのだろう。もっともダーレスは彼のいいかげんさを早くも見抜いていたようで「私とスコラーが合作した"The Black Castle"をライトはいっぺん没にしてから受理してくれました。でも私はその原稿を書き直していないのです」と1926年10月15日付の手紙でラヴクラフトに報告している。かくしてダーレスは没原稿を何カ月か寝かせておき、まったく改稿せずに何食わぬ顔で再提出してライトに受理させるようになったのだった。そんなダーレスのことをホフマン=プライスは「プロの中のプロ」と呼んでいる。

最初と最後のジョン=サイレンス

 ラヴクラフトの蔵書目録によると、彼の家には『心霊博士ジョン・サイレンスの事件簿』が2冊あったそうだ。1冊目は1908年にロンドンで刊行された初版本、2冊目は後にニューヨークで再版されたものだという。2冊目はダーレスからの贈物なのだが、ラヴクラフトが2冊とも手許に置いておいた理由は不明だ。もしかして保存用と観賞用だろうか。
 S.T.ヨシによるとラヴクラフトは1926年に『心霊博士ジョン・サイレンスの事件簿』を読んだそうだが、ダーレスが読んだのも同じ年だったことが1926年10月15日付のラヴクラフト宛書簡から判明している。

ライトは"The Sleepers"を即座に受理してくれましたが、"The Mill Wheel"は没になってしまいました。彼がその欠点を指摘してくれたので、ウィアードテイルズに載せる価値がない作品だということが今では私にもわかっています。ある友人にいわせると『心霊博士ジョン・サイレンスの事件簿』に似ているそうです。そこで私も読んでみたのですが、確かにとても似ているのです。あまりにも似ているものですから、ライトが受理しなかったことを嬉しく思っているほどです。その原稿をお送りいたしましょう。ライトが没にしたのは、説得力を欠くというのが主な理由でした。

 駄作だろうと何だろうと受理した以上は編集長の責任だろうといわんばかりに書きまくるようになるダーレスも17歳の頃はまだ遠慮がちだったと見える。彼がラヴクラフトと文通を始めたばかりの時期で、手紙の出だしも「拝啓ラヴクラフト様」と堅苦しい。それにしてもジョン=サイレンスに似ているといわれて直ちに読むあたり、さすがにダーレスは勉強熱心だ。
 "The Mill Wheel"を読んだラヴクラフトは10月19日に返信し、もっと雰囲気を盛り上げるべきだと助言した。またブラックウッドよりもアーサー=マッケンの文体を手本にすべきだと述べているが、ブラックウッドの文章はうまくないというラヴクラフトの持論を反映した意見だろう。いずれにせよ"The Mill Wheel"が発表されることはなかった。ウィスコンシン州立歴史協会が保管しているダーレス関連文書の中にも見当たらないので、その原稿は破棄されてしまったのかもしれない。
 ファーンズワース=ライトが即座に受理したという"The Sleepers"はウィアードテイルズの1927年12月号に掲載されている。シカゴ行きの寝台特急を舞台にした短い幽霊譚なのだが、これについては記事を改めて紹介したい。
 1936年11月15日付のフリッツ=ライバー宛書簡でラヴクラフトはブラックウッドの傑作として「柳」『信じがたき冒険』『ケンタウロス』「ウェンディゴ」を挙げ、「最初と最後を除いては」と但し書きをつけた上でジョン=サイレンスをそれらの作品と並べている。ここでいう最初と最後とは何のことだろうか。
www.tsogen.co.jp
 ジョン=サイレンスは1908年に刊行されてから版を重ねつつ今日に至っており、話の並び順は創元推理文庫の邦訳でも変わっていない。ただし「四次元空間の虜」だけは後から追加された作品なので、ラヴクラフトが持っていた単行本には収録されていない。したがって最初は「霊魂の侵略者」、最後は「犬のキャンプ」であり、ラヴクラフトが特に高く評価していたのは「古えの妖術」「炎魔」「秘密の崇拝」であったとわかる。
 ラヴクラフトは1926年12月25日付のダーレス宛書簡にも同じことを書いているので、一貫した見解だったのだろう。ちなみに、そちらの手紙では一番好きな話も名指しされている。容易に察しがつくだろうが、「古えの妖術」だ。